読んでみての感想は「あら?終わり?」という感じでした。
『騎士団長殺し』は、いくぶん突拍子もない出来事も起こるけれど、全体としは淡々と物語が進んでいく。そういう意味では『アフターダーク』に近い。『1Q84』を読んだときのドラスティック感はまったくなかった。
主人公はいつもどおり
内省的な主人公のもとに、奇妙な出来事が起こる。それは徐々に渦を巻くように大きくなって、そして女が消える。彼はその事態に身をまかせるしかない(いつものことだ)。
下記の文章に、主人公の意向が集約されていると思う。
私は目を閉じて、背中をシートに深くもたせかけた。そして思った。いろんな判断を永遠に後回しにできたらどんなに素晴らしいだろう。 (『騎士団長殺し』第1部 p426)
たしかに素晴らしいとも思うけれど、同時に地獄だとも思う。
リアリティのあるところ・ないところ
物語の時代は2008年か9年か、そのあたり。なので「インターネット」や「SNS」なんかも自明のこととして、人物の言葉に出てきたりする。けれどその言葉にリアリティがない。
「それで、君が彼について何か知らないかと思ったんだ」
「インターネットで調べてみたか?」
「グーグルはあたってみたが、空振りだった」
「フェイスブックとか、SNS関係は?」
「いや、そのへんのことはよく知らない」
「おまえが竜宮城で鯛と一緒に昼寝をしてるあいだに、文明はどんどん前に進んでいるんだよ。まあいい、こっちでちょっと調べてみよう。何か分かったら、あとでまた電話をかけるよ」
「ありがたい」 (『騎士団長殺し』第1部p135)
時代認識としてそれ抜きには成立しないから、形式的に用いているだけに感じる。著者にとっては想像の範囲外なんだろうか(もしくは描くべきものではないのか)。
けれど読ませるところはかなり読ませてくれる。主人公が目撃した「騎士団長殺し」の描写、日本画について隣人に解説する主人公の語り、絵を描くときの哲学とプロセス…。
それらは如才なく、綿密に、マッシブに描かれていて、リアリティがある。もちろん読んでいて非常に面白い場面だ。
そういう文章を読むと、『1Q84』に登場する小松という編集者のセリフを思い出す。小説家というのがどのようなことを考えているのか。
「天吾くん、こう考えてみてくれ。読者は月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな?
しかし空に月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはないはずだ。ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときは、なるたけ細かい的確な描写が必要になる。
省いてかまわないのは、あるいは省かなくてはならないのは、ほとんどの読者が既に目にしたことのあるものごとについての描写だ」 (『1Q84』book1-p309)
続編あるんじゃない?
物語のプロローグは『海辺のカフカ』のように、どこか異なる世界の話が挿入されている。それは第2部につながるんだけれど、プロローグでの「約束」は果たされないまま。
そして最後の章では、あの出来事が突如として挿入されている。これには読んでいてかなり驚いた。読み終えてみて「なんか続きそうだな」と思った。
・・・
2冊合わせて1,000ページ超。長い長い小説を読み終えると、それだけで達成感があります。
おしまい。